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晴れやかなる四十路へ!

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「論理と感性は相反しない」読了

「論理と感性は相反しない」読了しました。
山崎ナオコーラさんの代表作らしいです。帯にありました。
名前だけは知っていた作家さんですが、
「人のセックスを笑うな」で文芸賞を受賞していらっしゃいます。

私はたまたま図書館で、この挑発的なタイトルに目を惹かれ手に取りました。

作家さんより私の方が年上なので、失礼ながら言わせていただくと、
20代女性の若さゆえに許せるだろう可愛らしさを感じました。

実際にお会いしたわけでもないのでわかりませんが、
あれこれと気を使い、頭をめぐらせてはストレスを溜めて、
プライドと感情は尖がっているものの、所在の無さが可愛げに映ります。

可愛げに映ると言えば聞こえは良いですが、書いてあることに結論はみえず、
もし会話であったとしたならば、
言いたい事はいまひとつわからない、愚痴のようにも取れるでしょう。

「それで、何が言いたいの?」と問えば、
「そんなことを問われたい訳ではない!」と、感性で返されるかもしれません。
ただしゃべりたいだけの女の子のように、
ただ書いていることが楽しい作家さんなのかもしれない!?っと感じます。

それでも楽しいばかりじゃないと、すぐに返されそうでもあり、
さらには、すべては小説のなかのフィクションだと一蹴されそうでもあります。

ああ言えば、こう言う、返す言葉がたくさんあったように思います。
これはこれで楽しいです。

文字の羅列になっているからこそ、多角的な視点のある論理のように見えます。
これが魅力でしょうが、結論は感性の矛盾を抱えて見えてはきません。
言葉の会話であったなら、きっと私は付き合いきれないでしょうね。


他人が目を惹く刺激的な言葉はたくさん出てくるし、
突拍子もない発想を臆することなく表記できるところは、とても良いと思います。

私もブログを書き続けていますが、そこが大切だと思うのです。
他愛もないことや、取るに足らない妄想であったとしても、
ひょんなことから気づくことがあるかもしれませんし、
きっと、そこから思考も育つことでしょう。

思考を締め付けるところからは、
なんら育たないのではないか?と、思うがゆえです。


そして表題の「論理と感性は相反しない」について、私は挑発に似た誘いを受けて、
何が書いてあるのかと興味を持ちましたが、残念ながら不毛でした。

私に言わせれば「論理と感性は相反するとは限らない」です。
というより、数学でもユークリッド幾何学の公理があるように、
どんな論理性も、発端となる前提があるわけです。

日常生活の言動や行動に論理性を見るときも、何かしらの前提があるわけです。
そして、その前提は往々に当事者の感性に依存していることでしょう。

しかし感性は、人や場合によって、違ったり変わっていてもおかしくはありません。

発端と前提が同じとは限らないものを、
同じ土俵で取りあげることが不毛なわけです。

そもそも誰が考えても同じ結論に至るような筋道が論理でしょう。
対して「おんな心と秋の空」と言うほどに移り気で変化に富む感性を、
比較の対象に取りあげようってことが、不毛なのでございます。

時に、他人と一致する(相反しない)ことがあったり、
すれ違う(相反する)ことがあったりして、ソレが何だというのでしょう?
共鳴しあったり、違いを感じあったり、
互いに影響を与え合ってこその人間関係でしょう!?

たしかに、論理と感性は、
常に相反するコインの裏表のような関係ではないでしょう。

しかし極論を言えば、天邪鬼な感性の持ち主ならば、
根拠もなく常に論理に相反することもできるわけです。

断定的に言い切るから、きっと私には癪に障ったのでありましょう。
まったくもって不毛なトピックだと思うわけでございます。


とはいえ、私は内容に関して賛同しかねるが、面白く読めた本でもあります。
どうでも良いことを、こねくり回すことに楽しみを得られる感性の持ち主であれば、
こちらの本は、おススメな一冊になるのかも知れません・・・!?
by ambitious-n700 | 2016-09-20 11:04 | 漫画・TV・映画等 | Comments(0)

神社巡礼の記録14(芝大神宮)

熱帯夜も減って、虫の声も心地よい時節になりました。秋祭りの時期ですね。
この度、前から目星をつけていた芝大神宮へ行ってきました。

芝大神宮は「だらだら祭り」という祭事をやっています。
一週間以上にわたって、だらだらと祭りをやっていると言う意味もあるらしい!?

地下鉄に乗り継いで参詣してきたのですが、
都営大江戸線の大門駅を降りれば、すぐ目の前に社標と参道が目に入ります。
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社殿は神明造りで西を背にして、東に向かって建てられています。

東側がこの表参道となるようですが、都心の一等地であるために、
参道脇はまったく街中と変わらず、ビルが建ち並び、テナントが軒を連ねています。

社殿前の階段下には、横開きの柵と小さな賽銭入れがあったので、
おそらく夜間などは柵は閉められ、そこから手を合わせるようでした。

手水舎は階段の上にあり、昇ってから少し戻るような配置になります。

階段を昇って、手水舎で清め、また、社殿前に戻って奉拝。

脇に授与所があり、ここで御朱印をお願いしました。

お祭りの期間中であったためか?
神職のみなさまも忙しそうで、書置きしてある御朱印を授かる。

結婚式や祭事も盛んなようで、
全くダラダラしている印象を受けませんでした。

境内は木々の緑を楽しみ散策するような所は、残念ながらあまりありません。
しかしながら、街全体を包み込むような神社でしたので、
散策するなら、芝の街そのものを楽しむと良いかもしれません。

階段下には、生姜塚があり、そして「め組の喧嘩」で、
島流しにあった半鐘を見ることが出来ました。

周辺で栽培も盛んだった生姜は、
古来より薬用とされ神前にも供えられたということ。
そして、ヒット曲「め組のひと」は知ってても、
「め組の喧嘩」には詳しくなかった私ですが、
芝で、火消しと力士が起こした喧嘩とのこと。

その町火消しが「め組」で、
火事ではないのに、半鐘を鳴らし仲間を集めたと咎められる。
しかし、勝手に半鐘が鳴ったとされ、半鐘が罪を被って島流しにされる。
当時の奉行が下した裁きに温情があったことを、
この半鐘は物語っているのだそうだ。
実際に、島流しにあって三宅島へ渡り、明治になって芝に戻されたそうです。
b0090284_10231787.jpg

喧嘩の発端は些細なことだったらしいが、
江戸町奉行と寺社奉行、勘定奉行とで裁きを侃侃諤々したことで、
後の世に語られることになったそうです。

江戸っ子は、喧嘩っ早いとは言い伝えられてますが、信憑性がますお話ですね。


これで私は東京十社のうち、
六社を参詣して御朱印を授かったことになります。
by ambitious-n700 | 2016-09-19 10:23 | 神社仏閣 | Comments(0)

It's automatic!

毎年、秋頃に健康診断を受けるようにしています。
病院からは、健診当日までに採便・採尿するように、
問診票と一緒に容器の入った採取キットが送られてきます。

前回の健診では、なかなか便通が来なくて苦労したので、
今回は外出した時でも大丈夫なように、採取キットを持ち歩いていました。

これで今回は余裕をもって対応できるぞと、たかを括っていました。
そして案の定、外出時に便意を感じて、
近くのショッピングセンターのトイレへと行きました。

和式トイレの方が便を採取しやすいのですが、
洋式トイレでも採取キットのペーパーを敷いて、
便が水没しないようにして採取できる工夫がされています。

しかし以前の経験則から、
採取キットのペーパーだけでは持ちこたえられないこともあるので、
トイレットペーパーを少し敷き足しておきました。

さあ、仕上げに採取キットのペーパーを敷くぞ・・・と、用意をしていたら、
いつのまにやら、じゃぁ~ッ・・・と便器に、水が流れるではありませんか!?

・・・・・・!?・・・・・・!?

おぉっ!そうです。今は水洗トイレもオートマチックの時代です。
赤外線センサーで、便座を立つと自動的に水を流すシステムですっ!

これではペーパーで便の水没を防ぐどころではありません。
便を採取する前に、キレイさっぱり流れてしまいます。

どうしたらいいんだ?

センサーを止める術はわからないし、便座から立ち上がらなければ便を採取できないし、
タンクの水栓を閉めれば良いのでしょうが、余所様のトイレで、水栓自体が見当たりません。

水が流れない方法は、きっとあるのでしょうが、模索する時間も便意は待ってくれません。

私は、やむをえず採取キットをしまい込み、お腹を抱えて他のトイレを探しに回った次第です。

その後、なんとか近くのトイレで事なきを得たわけですが、
なんでも便利になれば良いってものではありませんね。

それに採取キットのペーパーは回数分しかありませんでしたから、
もし流れてしまっていたら、余計な苦労を背負い込むところでございました。

みなさまも、外出時の便の採取には、どうぞお気をつけ下さいませ。
by ambitious-n700 | 2016-09-18 14:01 | ぼやき | Comments(0)

「海の見える理髪店」読了

荻原浩さんの直木賞作品ですね。
表題作を含む短編6作が綴られておりますが、
他の短編作品が選考対象になったかどうかは知りません。

読み終えて、表題作は圧巻でした。
まさに文芸、文の芸術だなぁ~と感嘆しました。

理髪店の描写をしているに過ぎないのだが、
それだけで、たおやかな時間と店主の心遣いが伝わってくる。

他愛のない話の流れのなかに、違和感が湧いてくるが、
クライマックスでは霧消され、スッキリした読後感を与えてくれる。

あらすじとしたら、ひと言で済ますことができる事柄を、
描写力が、その心情に幅と奥行きをもたせ、
なおかつ、読み手を引きつける演出にもなっている。

まさに、あえて安易な言葉を使わずに描写力で伝える、
文芸の技を駆使した作品だと思いました。


また6編を読んで、荻原浩さんという作家は文芸の技が巧みであるとともに、
「時間」を意識している作家さんだなぁ~というイメージを持ちました。

太い幹からは、細い幹より、長い時間を感じるように、
丁寧で繊細な描写は、簡潔な描写よりも、
ゆっくりとした時の流れを感じることができました。

文芸って作家の技量しだいで、
時の速さまでも、しっかり描き分けることができるのだなぁ~と感心しました。


この世に生を受けていれば、平等に与えられている時の流れ。

平等に与えられているはずなのに、
個々の心によっては、速かったり遅かったり、止まっていたり。

「時間」には、逆戻ることができない厳しさと、心癒してくれる優しさと、
それでも進め!との励ましてくれる所があるのだと感じましたね。

いずれの短編も、なんとも味わい深い作品でございました。


また「成人式」という最後の短編で使われていた『XX』。
ダブルミーニング?トリプルミーニング?を用いた演出だと思いますが、
作者の意図は、いったいどこまでなのか?
果たして私の解釈であっているのか、考えすぎなのか?今でも自信はありませんね。
by ambitious-n700 | 2016-09-10 10:21 | 漫画・TV・映画等 | Comments(0)

欲を抑制、感謝で自制

先日、テレビで稲荷寿司の特集を見ていました。

多少の演出もあろうとは思いますが、
美味しそうに各地名店の稲荷寿司を紹介していました。

傍らで見ていた嫁さんが「食べたいっ!」「行って食べたいね。」と。

えぇ、確かに美味しそうでございます。

しかし、それは石川県の金沢にあるお店でした。
北陸新幹線ができたからとはいえ、そうそう行ける場所ではありません。
言葉を真に受けてしまえば、なかなか叶わぬお話です。

さらりと流せば良いものを、
どうしてか嫁から出た、このひと言が私の気に障ったのです。

そもそも我が家では、一年間でお盆と年末年始ぐらいしか、
家族で旅行をする機会がありません。
にもかかわらず、「私はダメだから・・・」と、平気で自分の予定を優先する人です。

ここ数年、お盆の旅行を日帰りできる場所にしているのは、
嫁の予定を配慮してのことでした。
(ブログでは詳らかにしてませんが、実は旅先で中抜け行動は頻繁です)

もし本当に食べたいのなら、家庭をほったらかして嫁さん一人で旅をするか?
自身の態度を改めて、家族旅行に協力して計画を組まなければなりません。

私には到底、現実的ではなく遠い夢物語でございます。

この時、私は「まぁ、いつかね・・・」と素っ気無い態度と、
余計なお世話ながら「もっと軽い気持ちで言葉にしなよ。」と返しました。


この嫁の発した「食べたいっ!」のひと言なのですが、
チカラを込めて、気持ちが入っていればいるほど、
欲は深くなり、醜く映るものでございます。

最近見るドラマでも、カニを脇目も振らずに食べるシーンがありました。

手でカニを割り、指をなめながら食べる姿です。
これをクローズアップするということは、
人の欲望を、ありのままに強調したいゆえでしょう。

誰も食事をせずには生きてはいけませんから、
私も食欲を否定するわけではありません。
しかし、美味しいものを食べたいという欲が強すぎれば、
欲は欲ですから、強欲となり、業も深くなりかねません。

つねづね「少欲知足」という言葉を、嫁に贈りたいと思っていますが、
なかなか真意が伝わらないままでいるのです。

嫁自身はどこか、欲は、行動の原動力であり、
向上心に繋がるから良いものと信じているところがあります。
そして、強欲になりすぎた時のデメリットに目が行かないようでもあります。

夢を描き、大志を抱くにしても、欲がなくては始まりません。
全くもって嫁の言う通りなのですが、
過ぎたるは及ばざるが如しであることも、確かだと思うのです。

無欲は、無関心や無気力に繋がるので、無欲になれと私も言いません。

強欲と無欲の中道、少欲にも良さがあることに、気付いてほしいのでございます。


そんなことを考えていたら、
なるほど「少欲知足」の知足の部分が大切なのかと思いが過ぎったのです。

たとえ欲が少なくても、足るを知るということは、
ひとつひとつを大切に扱い、目を向けることなのでしょう。

例えば、とても甘美な物を食べたからといったって、
食べ終えては忘れてしまい、次を欲すれば、欲は連鎖となりて強欲となることでしょう。

これを断ち切るのは、やっぱり感謝の念なのでしょうね。

その行為や物に対して、感謝をして何が変わるのか?
物質的な何かが、すぐさまに変わることはありません。

しかしながら、そこに充足感を得られれば、人にゆとりが生まれます。
ゆとりを持てば、状況を俯瞰してみることも容易くなり、
自身の欲の美醜も、行為の良し悪しも見えてくることでしょう。

そうすれば必要以上の欲に囚われることも減って、
自制ができることに繋がります。

そして自制ができる人が増えた社会は、きっと争いも減るに違いありません。


若い頃は「感謝をして何になる?」との疑問を持ったこともありますが、
それは個人単位では答えがなかなか見えずとも、
個々の感謝の念は、社会を丸くする発端なのかもしれないですね。

今回、嫁の「食べたいっ!」との不用意なひと言から、
私の気もなかなかおさまりませんでしたが、
これはこれで、良い気付きに出会えたのではないかと思ったのでした。

あぁ・・・ありがたや、ありがたや・・・でございました!?
by ambitious-n700 | 2016-09-09 12:03 | その他 | Comments(0)

「また、同じ夢を見ていた」読了

「また、同じ夢を見ていた」読了。住野よる氏の第二作目です。
デビュー作「君の膵臓を食べたい」とは、また違った赴きでした。

パラレルワールドやアカシックレコード、曼荼羅や夢の概念など、
スピリチュアル系をある程度、咀嚼している人なら理解しやすいのでしょうが、
読み手との相性を選ぶ本かもしれないですね。

チラホラ見える話の小さな矛盾点が、
最後には、ひも解けるようになってはいるのですが、
いわゆる非科学的なスピリチュアルな体系に依存しています。

そもそも非科学的なことに否定的な人は、
わりきって時空を超えたファンタジーと捉えないと、楽しめないと思います。

わかりやすい言葉で読みやすいですが、
構成はちょっと理解しづらくして、読み返す楽しみを散りばめているようです。

幼女の言葉は単純で、中身が伴っていないように映るところも、
小生意気で好き嫌いが分かれるかもしれません。

私自身は、いまひとつ登場人物に感情移入は出来ませんでしたが、
捉えていたスピリチュアルな体系を裏付けるような面白みがありました。

あれは、こうで…。これは、ああで…。ははぁーっという感じです。

まぁ、夢について言えば、吉夢であろうと、悪夢であろうと、
たとえ、理解できない不思議な夢であろうと、
目覚めた時に何か少しでも、ひらめきを与えられたならば、
それはそれで、きっと幸せなことだろうと思うのでした。
by ambitious-n700 | 2016-09-06 11:01 | 漫画・TV・映画等 | Comments(0)