先日、乃木神社へ参詣してきました。
乃木希典陸軍大将が神格化して静子夫人とともに祀られています。
都内の別表神社で私が参詣していないところが、あと僅かになって、
このたび、こちらにお参りする縁を得ましたが、
正直に言いますと、ちょっと避けて後回しにしていたところがあるのです。
人物が神格化して祀られていることに対しては、
その人物に偉業を為させるにあたって、
神性が宿り、権現したものと解釈しているので、私は抵抗がありません。
しかしながら、乃木大将においては、
自刃の史実をどう捉えていいものかと、戸惑いが芽生えてしまうのです。
窮地に陥って自刃するなら、まだ理解しやすいのですが、
望むかのように自刃した人物が神格化して祀られている所を、私は他に知りません。
そんな複雑な気持ちを抱えつつ、地下鉄を乗り継いで神社に着いてみると、
数羽の雀が囀り、思ったよりも穏やかな空気が流れていたように思います。
まずは鳥居をくぐり階段の参道をのぼって、手水舎です。
お清めをして、拝殿前にて二礼二拍手一礼のお参りをしました。
東側に摂社の正松神社、西側には雷神木がありました。
どちらにも参ってから、授与所で御朱印を受けました。
護国の軍神ですから、勝守りなどが多かったと思います。
その後、軍歌の流れる宝物殿を見学。
英国からの勲章や、御殉死の際の軍刀や葡萄酒の瓶がありました。
その生々しさに、こころは揺さぶられますが、
これは是か非か、簡単に判断できない、得たいの知れぬ感情が沸いてきます。
乃木大将の自刃は、十文字に割腹したという、
切腹においても、その作法に則ったものらしいです。
時代が時代ですから、現代人が捉えるよりも切腹は神聖だったのかもしれません。
ですが、罪があるならそれを償い、供養に生きるという発想は、
受け入れられなかったのでしょうか?
こればっかりは考えても詮無く、乃木大将の胸の裡はわかりません。
そして、伝わる逸話からは、他人にも自身にも厳しい人物だったことが窺えます。
旅順攻囲戦の功罪も、そこで実子を亡くした体験も、
私の想像を超えるものであったと思います。
境内を散策しながら、しばらく想いを巡らしていると、
神性というものに、慈愛や寛容といった母なる神性があるとしたら、
乃木大将は、父なる神性だったのかも知れないなぁ~と思いました。
父なる神性ってイメージしづらいとは思いますが、
自他に厳しくとも、そこに「我欲」が殆ど見えないのです。
その厳しさは、他者を慮ってのことだと思うのです。
そして・・・なるほど「神性」は、
「我欲」の対極にあるのかもしれないのだと思いました。
これには、我が家の出来事で思い当たることがあります。
子供を躾けるためとは言いつつも、
その言葉に親の我欲が隠れていると、なかなか伝わらないのです。
わが家でよくあるのが、
「早く食卓に着きなさい」や「手伝いなさい」という言葉ですが、
親が片付けられず困るから・・・、親が忙しくて大変だから・・・、
という親の我欲や都合が隠れていると、子供はよくそれを見抜き、甘えて動きません。
しかし、本当に子供のことを思ってだけの言葉なら、
比較的にまだ、子供の心に伝わりやすいのです。
(生活リズムが乱れるのは悪影響だから)「食事の時間を守りなさい」とか、
(料理も洗濯も練習して身に付ける為に)「手伝いなさい」などの方が、
同じ言葉でも、子供の心に届きやすいように思います。
躾けの言葉を伝えやすくするには、言い換えれば、言葉に神性を宿すには、
親の我欲は、それを邪魔しているのかも知れないと思ったのでした。
神社に隣接しては、旧乃木邸が保存されています。
厩舎など明治時代の建築物を見ることができます。
庭園もよく手入れされていて、墓所もあり、また、自刃の地ではありますが、
それほど暗い空気を感じることはなかったと思います。