晴れやかなる四十路へ!

あぶく銭に宿る念

我が子が学校の課題で「賭け」について取りあげたらしい。
当たれば得をして、ハズれれば損をする。
参加するルールは簡単ですが、
ギャンブルが、時に嫌われる理由はなんであろうか?

以前、サイバースペースでのゲーム類が衣食住と関わらず、
実社会において、必ずしも生産的といえないと書いた記憶があるが、
ギャンブルも同様に、その閉鎖的なシステムの中では、
胴元と参加者の間で金銭の授受をしているだけである。

いわゆる寺銭的な外部への支払いがなければ、
作物ができたり、家が建ったり、衣服が織られたりする訳ではない。

そして、ギャンブルをすれば、
得をするか、損をするかのどちらかである。

損をするためにギャンブルをする人は皆無であろうし、
損をして悔しがれば、その分、得をした人が喜んでいるのである。


さぁ、ここからが問題で、
ギャンブルに誘う友人がいたとしたら、それはどんな存在か?

人が集まらなければ、ギャンブルは成立しないが、
果たして、誘ってくる人と一緒に喜びを分かち合えるだろうか?

規模が大きければ、一緒に勝ちを手にするギャンブルもあるだろうが、
そこに参加した見知らぬ誰かが、損をしているはずである。
まして、規模が小さければ、誘ってきた者も勝ち負けとなれば充分に敵となりうる。

ここで損をした者の視点に立てば、きっと悔しがる負の感情が起きることだろう。
負けが込んでしまい、ムシャクシャして、
だれ彼かまわず八つ当たりでもしたくなれば、どうだろう?
ギャンブルは負の因縁を作ることになりかねないのではないか?

勝ちを得た者が、もし、その利益に興じるだけなら、
裏を返せば、負けた者に怨嗟が生まれても、おかしくはないのである。


そして、お金はお金である。お金に色はない。
きれいなお金も、汚いお金もない・・・ハズだ!

だがしかし、昨今のテロしかり、格差社会しかり、
もし、マネーゲームの結果で貧富の差が広がったとしたら、
いたずらに、妬み嫉みを生産していただけなのかもしれないと、そら恐ろしく感じる。

WinWinの関係が成り立たないギャンブル。
そこで手に入れたお金は、負けた人の怨嗟が宿っているのかもしれない。
そのお金に宿ってなくとも、社会に害悪を放っているのかもしれない。

あぶく銭はパァ~っとふる舞え!勝ち逃げはいけない!なども、
負けた人の怨嗟を晴らすという意味では、確かに合点がいく格言です。

競馬(ギャンブル)で蔵を建てた人はいない、とも言いますが、
勝てば勝つほど、見えない怨嗟も一緒に背負い込んでるのではなかろうか?


こうして考えると、ギャンブルは社会に偏りを生んだとしても、
多くの人々にとって生活に生産的なものではなく、トラブルメーカーと言えるかもしれません。

まぁ、私は余暇としてのギャンブルまで否定しようと思いませんが、
それも負けて楽しめた!っと思えるぐらいで、
ちょうど良いのかもしれないと思うようになりました。

まぁ、それもこれも、歳をとってのことですけどね。
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by ambitious-n700 | 2015-11-20 16:54 | その他 | Comments(0)
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